南部道遙かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みずの小嶋を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿する枕もと
あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。『さらば』といひて人を頼みはべれば、究竟の若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄出づ。かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。
「新版 おくのほそ道」角川ソフィア文庫より
美豆の小島 平泉を発ち、出羽へ向けて歩を進めた芭蕉は宮城県玉造郡岩出山町(原文では岩手となっている)に一泊する。鳴子へ向かう途中、歌枕の小黒崎とみずの小嶋を見物しているが、ここで句は詠んでいない。
国道47号沿いの小黒先崎観光センターというレストハウス駐車場の傍らに碑が建っていて、一応芭蕉の像もあったりする。そこから国道を挟んで向かいに見えるのが小黒崎ヶ山。また、美豆の小島についても江合川畔に案内看板があり、そこから歩いて僅かばかり行くと川の中に小島があるのでそれと分かる。
尿前の関 『おくのほそ道』における最も重要な道中が、この出羽への路だったと思う。それまでの日光街道から奥州街道を経て平泉中尊寺まで至る道のりは、いわゆる国道沿いみたいなもので人の往来も多く、街道沿いには町も多かった。しかし、この出羽への峠越えの路はほとんど人の往来もなく、またしばしば山賊が出没するという危険な道のりでもあった。芭蕉は、山刀伐峠を無事に抜けて俳句を通じて親交を深めていた尾花沢の清風の元を訪ねて、ほっとした心情をあからさまに記している。東北の人間からすれば、もっと険しく危険な峠は幾つもあるのに「この程度で何ビビってんだ」と思ったりもするだろう が、シティボーイだった芭蕉にとってはスリリングでサバイバルな行程だったに違いない。それはさておき、ここで詠まれた「蚤虱馬の尿する枕もと」は、田舎者にはとうてい考えも及ばない題材であり、かつそのような未開の状況を風流だとして俳句にしてしまう芭蕉って、やっぱり天才なのだと思う。
封人の家 国道47号「北羽前街道」の宮城県と山形県の県境にあたる境田という場所に、封人の家がある。江戸時代にはすでにあったと 推測されることから国の重要文化財の指定を受けて解体修復された古民家は、ちょっと小綺麗すぎて芭蕉の句のイメージとはやや違和感を感じるが、雰囲気はとても良い。囲炉裏に座って炭火を眺めながらゆっくりと日本酒をやりたい気分にさせてくれる。ここで、芭蕉は天候不良のため3日足留めを強いられるが、3日 間の滞在の様子は描かれていない。もし、旅先でどのようなものを食べ、どのような名所旧跡や温泉を巡ったのかを紹介する別冊「おくのほそ道」なるムック本 を芭蕉か随行の曾良が思いついていたなら、きっとベストセラーになったのにと思ったりする。