心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあわれなり。卯の花の白砂に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめおかれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良
「新版 おくのほそ道」角川ソフィア文庫より
東北の入り口 にあたる白河の関は、福島県と栃木県の県境にあたる白河市のはずれにある。かつて、「白河以北一山百文」と呼ばれた東北の地。鬼だの妖怪だのが棲む蝦夷と 蔑まされ、今度はいきなり歌枕などと都人から憧れられても、地元の人からすれば素直に喜べない話だったかもしれない。いずれにしても、おくのほそ道の旅の 目的の一つに歌枕を訪ね歩くということが入っていたのだから、芭蕉の足跡をトレースしていくと必ず歌枕に行き当たる。
芭蕉が白河 の関に到達したのは江戸深川を出発しておよそ1ヵ月後の元禄2年4月20日(1689年6月7日)のこと。距離にしておよそ200kmあまり。東北新幹線 なら1時間ほどで到達できるが、芭蕉は徒歩でこの地に辿り着いた。ここが、みちのくの入り口、まさに旅の本題に入ろうとする重要な地のはずだが、芭蕉はこ こで句を詠まなかった。先達の歌人に敬意を表したという説もあるが、その辺の解明は学者に任せることにして、まずは『おくのほそ道』紀行「みちのく路」の はじまりである。