そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を尽くして、欹(そばだ)つものは天を指さし、伏すものは波に葡匐(はらば)ふ。あるは二重に重なり三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。負へるあり、抱けるあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きためて、屈曲おのづから矯(た)めたるがごとし。その気色窅然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ。ちはやふる神の昔、大山祇(づみ)のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるい、詞を尽くさむ。
雄島が磯は、地続きて海に成出たる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
松風や鶴に身を借れほととぎす 曾良
予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適(はらあんてき)、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きてこよひの友とす。かつ、杉風(さんぷう)・濁子(ぢょくし)発句あり。
「新版 おくのほそ道」角川ソフィア文庫より
晩年の芭蕉が、結果的に自らの寿命を縮めることになってしまった「おくのほそ道」紀行。その旅の最大の目的の一つが松島だった。ところが、芭蕉は松島に関する句を詠まなかった。本文の中では、中国浙江省の西湖の風景にも劣らぬという最高の賛辞を記しながら、肝心の句を詠まなかったのは、何か特別の意図があったのだろうか。「”筆舌に尽くしがたい”などといって表現することを放棄するのは、モノを書くプロとして失格である」というような意味のことを、小説家の開高健氏は何かの本に書いていたけれど、紀行の序文に「松島の月先心にかかりて」とまで記した松島への印象をぜひとも句にしてほしかった。
というのも、長年松島の近くに暮らす者にとって、その存在があまりに身近すぎて、価値を見いだしにくくなってしまったというか、今ひとつその良さを感じにくくなっているし、どちらかといえば松島に対するイメージは、金儲けのための世俗的な観光地という印象の方が強い(それは、国内にあるあまたの観光地に共通することでもあるが…)。
願わくば、芭蕉が訪れた当時の松島の景色をこの目で見てみたいものだ。そして、もし、そこで偶然にも芭蕉翁に出会うことができたならば、ぜひとも尋ねてみたい。「俳聖と呼ばれたほどのあなたが、なぜ、憧れの地で句を詠まなかったのですか?」と。